プレカリアートユニオンブログ

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私はなぜ立ち上がったのか1 梅木隆弘さん(45歳) 月400時間労働で心筋梗塞発症 ドライバーの労働条件改善したい

私はなぜ立ち上がったのか・1 梅木隆弘さん(45歳)
月400時間労働で心筋梗塞発症ドライバーの労働条件改善したい

働く場で理不尽な目に遭ったとき、命や健康を守って働きたいと思ったとき、働く条件をもっとよくしたいと思ったとき、諦めずに立ち上がった仲間の物語を紹介します。第1回目の梅木隆弘さんは、現在、プレカリアートユニオンの副委員長と、田口運送・都流通商会支部の書記長を務め、精力的に活動しています。

「えっ、入院費、自腹なの?」
 運送会社でトラックドライバーとして働く梅木隆弘さん(45歳)が、長時間過重労働による心筋梗塞で緊急入院したときのことだ。当時、36歳だった梅木さんは、手術で一命を取り止め、2週間ほど入院した。退院の前日、ベッドに医療費の請求書が届く。「62万円」と書かれていた。
 当時、梅木さんの労働時間は、月400時間を超えていた。労災申請すれば入院費や休業中の賃金補償も後遺症に対する補償もされるはずだが、見舞いに来た会社の役員は、何の説明もしなかった。梅木さんは、労災は、工場などで仕事中に怪我をしたときにしか適用されないものと思っていた。
車中泊を繰り返して1日18時間労働も
 運送会社である都流通商会株式会社で最初に働き始めたのは18歳のとき。ミュージシャンになるという夢を叶えるため、手っ取り早く金を稼ごうと思ったのがきっかけだった。プロのドラマーである師匠の下で修行しながら、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めた。師匠と一日中一緒にいる、いわゆる付き人になったため、、2年ほどでいったん会社を離れたが、当時の会社の管理職や同僚は、「本当に、食べていけるの? 失敗したら戻ってきていいんだよ」と言ってくれた。
 ハンドルを握る仕事は、ある種のセーフティネットでもあった。いざとなったら、免許があれば食べていけるという自信が、ミュージシャンという夢に向かう背中を押した。
 ところが、ミュージシャンの道を諦め、他業種も経験して10年前、35歳で3度目に正社員として会社に戻ったとき、給料の安さと労働時間の長さに、愕然とする。以前は、午前5時から翌日の昼過ぎまでだった仕事が、午前2時から午後2時、3時までに延びていた。仕事も薄利多売に陥っているように見えた。10年前の入社時に、当時の社長から、「以前ほどは稼げない」と聞かされて、月給は手取り30万円という契約で入社したが、月28万円程度になる月もあった。一方、走行距離は倍になった。
 当時は40人ほどのドライバーのうち、昔を知っているドライバーが10人ほど残っていた。
「その人たちが、この業界は終わったよ、と口を揃えて言うんです。僕が、何もしないの? と聞いても、諦めている様子でした」。
 梅木さんは、会社を出たり入ったりしている自分を三度迎えてくれた会社に恩義を感じていたのと責任感とで、他のドライバーが嫌がる仕事を率先して引き受けた。労働時間は1日18時間に及び、家に帰れず、着替えを積み込んで車中泊を繰り返していた。4トン車で冷凍食品を運んでいて、冷凍庫の電源と車のエンジンが直結していたため、配送中に停車してもエンジンを切ることができない。エンジンをかけたままで長時間トラックから離れることもできなかった。
車中泊をしていたのは、睡眠時間を確保するためでした。仕事が終わるたびに家に帰っていると寝る時間がなくなってしまうんです。先輩ドライバーは、(一酸化炭素中毒になるため)トンネルの中ではエンジンをかけっぱなしで寝るなとか、足がむくみだしたら病気の合図だから気をつけろ、と注意してくれました」。
■前年に過労死したドライバーがいた
 他のドライバーは、めいっぱい働く梅木さんを複雑な表情で見ている。古くから会社にいるドライバーが、話しかけてきた。
「君が入る前に、人が死んだんだよ」。
 梅木さんが3度目に入社する前の年、朝、出勤してきた管理職が、会社の事務所で冷たくなっているAさんを発見した。死因は心筋梗塞だったという。長時間労働による過労死として労災認定された。真面目でみんなが嫌がる仕事を引き受けたり、他の人を気遣っていたと聞かされた。
 取引先の現場の担当者からも、「お前の会社はおかしいぞ。交代要員もよこさず、あのドライバーを現場に張り付けていた。お前も気をつけろ」と言われた。
 正確にはAさんは、都流通商会と事務所を共有し、一体のものとして経営していた別法人に籍を置いていたが、社長が2社の社長を兼ねており、仕事を融通し合い、従業員同士も同じ会社で働いているようなものだと思っていた。Aさんが所属していた会社も都流通商会も実権を握っているのは、グループ会社の田口運送株式会社の社長だった。
心筋梗塞発症。「何人殺せば気が済むんだ」
 月400時間を超える労働に従事するなかで、2005年8月、梅木さんは、ついに心筋梗塞を発症する。ある日、頭痛がひどく病院に行ったところ、異常に血圧が高いと分かった。しかし、代わりのドライバーがいないため、仕事を休むことができなかった。
 2日後の仕事中、両脇の下に今まで感じたことがないほどの、激しい痛みを感じる。
「最初は筋肉痛かと思ったのですが、鎮痛剤を飲んでも、まったく痛みが治まらないんです。会社に電話をして、病院に行きたいから休みたい、と言ったところ、当時の社長から、『人がいないから配送を全部終わらせてからにしてくれ』と言われました。激痛で運転どころではなかったのですが、仕方なく、鎮痛剤をかじりながら、何とか運転を続けて配送を終わらせて、家に帰ったのが夜8時過ぎ。少し休んで翌日病院に行こうと思ったのですが、明け方、激痛が襲ってきて、救急車で病院に搬送されました」。
 梅木さんは、病院の検査中、のど元に激しい痛みを感じ、目の前が真っ暗になって意識を失った。この発作が、病院以外の場所で起きていたら、助からなかったかもしれない。
 2週間の入院後、1週間の自宅療養を経て仕事に復帰した。連続勤務で家に帰れないような仕事はなくなったものの、5日後には徹夜に近い長時間労働に従事させられた。取引先の担当者が、「こんなに働いてはだめだ。会社に言った方がいい」と心配してくれた。
 退院した梅木さんに、当時の社長は、「大丈夫なんだろう。またがんばれよ」。口癖でもあるが「しょうがないじゃない」と何事もなかったかのように言った。梅木さんは、「休ませないで働かせたからこうなったのに、そんな軽い言葉ですませるなんて、どういう神経してるんだ」と思った。そのとき、自分の前にも心筋梗塞で亡くなったドライバーがいたことを思い出した。
「何人殺せば気が済むんだ」。
 ミュージシャンを目指していたときにアルバイトとして働いていたときには、当時の社長にも同僚にも気にかけてもらった、という親しみや恩義を感じていた。プロドラマーの付き人として修行していたとき、「食えないから会社に戻りたい」と当時の社長に相談したら、アパートと電化製品を用意して迎えてくれた。「働いて返してくれればいい」と言っていた社長は、別人のように虚勢を張って、社長風を吹かせていた。社内には、従業員からの不平不満が渦巻いていた。
 知人から、心筋梗塞も労災が適用されると聞いて、労災申請をしようとしたら、当時の社長から「労災は困る」と言われた。週刊誌で労災に詳しいと紹介されていた弁護士に相談、労災申請して、後に業務上と認定された。その弁護士に依頼して、会社を相手に損害賠償の裁判も起こした。
 労災で心筋梗塞を発症して以降、梅木さんは、日々の仕事内容、労働時間などを記録するようになった。今回は運良く生き延びたが、不慮の事故で死んだ場合、自分の仕事の実態を誰かに証明してもらいたいという思いからだった。
■「社長憎し」で文句を言ったものの
 梅木さんが、労災の心筋梗塞について弁護士に相談しているという噂が社内に流れると、経営陣は、会社を偽装倒産させようとした。
「また責任逃れか」
 焦った梅木さんは、弁護士の助けを得て、未払い残業代の仮差し押さえをした。仮差し押さえが認められ、残業代については会社と和解。会社も存続することになった。
 一方、倒産騒動に振り回されて、同僚たちの間には、いっそう会社への不信感が募っているようだった。ドライバーが、仕事中に、他の車両から追突されるという事故が起きた。社長の第一声は、「車は大丈夫か、納品時間は間に合うのか、何でぶつけられるんだよ」。ドライバーたちは、なぜ最初に、「怪我はないか」と言えないんだ、と怒った。会社への不平不満は、「社長憎し」という感情に集約されていった。管理職までもが、社長を辞めさせろと公然と文句を言うようになった。経営の実権を握っているはずの田口運送の社長は、責任逃れをするばかり。
 言うことを聞かないと会社をつぶすなどと言う社長への不満が爆発し、社員が一堂に会して社長をつるし上げた。このままでは納まらないと判断したグループ会社の社長が、社長に引導を渡す。
「このときは僕も労働組合という発想はありませんでした。ドライバーは、『社長憎し』で文句を言ったけれど、その先、何をどうすれば会社を変えられるか、分からなかったんです。社長は代わったけど、会社は変わらなかった。労働条件を改善するとか、経営状態を説明させるといった結果にはつながりませんでした」。
 60人の社員を煽った中心人物たちは、その後会社に取り込まれて、社長室長をはじめ管理職になった。
「みんなの怒りを自分の待遇をよくするための駆け引きに使ったんだと分かりました」。
 これではだめだ、と思った。
 その後、反乱の中心メンバーは、会社に利用された後、利用価値がなくなったところで会社からの嫌がらせに遭って全員退職した。嫌がらせをされて弱り果てているかつての反乱者に「昔のことは気にしていないから、困っているなら相談してよ」と言ったが、本人は今更顔向けできないと思っているのか、意地を張っているのか、何も言わずに去った。
■動かない労働組合
 労災の心筋梗塞の裁判を担当してくれた弁護士から、労働組合というものがあると聞いた。弁護士からは、労働組合の地域組織をいくつか紹介されたが、思わぬ対応に困惑する。
 ある組合では、弁護士から紹介された手前、面談の時間は取ってくれたが、遠回しに加入してもらっては困ると言われた。別の組合は、企業内組合で活動していたという定年後した年配の男性が対応し、二言目には「自分はボランティアだから」と言って逃げ腰になる。過半数を取るまで公然化すべきでないというハードルを課されて、非公然でそれなりの人数は集めたものの、労働条件の維持向上をするような取り組みはできなかった。
 別の会社でトラブルに遭った知人を紹介したが、裁判だのみで組合としての取り組みを提案されることもなく、団体交渉も満足に開かれず、組合員だけ配転させられるという不当労働行為をされても、反撃もしなかった。紹介した知人からは恨まれた。
 そのうちに、梅木さんが非公然で集めていた仲間は、いつまで経っても動こうとしない組合の対応にしびれを切らして離れていった。
「当時の組合のことを思い出すと悲しいです。対応できないからできないと、正直に言ってほしかった」。
 梅木さんは、社内でも恨みを買うことになったが、気を取り直して、労災の損害賠償の裁判は続けていた。2年ほどが経った2009年6月、仕事中に手を怪我して、3ヶ月休職した。たまたまその間に、非正規雇用が中心の個人加盟の労働組合がライブハウスでイベントを開催すると知った。会場では、組合の争議の映像などが流され、仲間が集まって力を合わせれば、会社を変えられると力づけられた。一方、自分が働く会社内では、労働組合作りに失敗した傷跡が深く、すぐに動くことがためらわれた。
■労災の損害賠償訴訟和解後、賃金減額
 2012年6月、梅木さんは労災の心筋梗塞の損害賠償請求訴訟で、会社と和解した。その直後、社長から、賃金を切り下げると通告された。「報復だ」と思った。
 梅木さんは、イベントを見て印象に残っていた非正規雇用が中心の個人加盟組合に相談することにした。事務所を訪れると3年前にイベントで見たような勢いは感じられず、イベントで登壇していたメンバーの姿も見えない。「あれ、おかしいな」と思った。
 会社に加入通告と団体交渉申し入れはしたものの、担当者が打ち合わせに来るものの自分の仕事が大変忙しいらしく、分からないことを聞くのもできないくらい疲労困憊し、イライラしているようだった。交渉に関わる人や組合で会う人がそれぞれ別のアドバイスをする。会社に提出する書面を自分で作成するよう言われるが、パソコンを扱ったことも、込み入った文書を書いたこともなく、組合外の知人に頼んで、代わりに文書を打ってもらうこともあった。
「会社側の弁護士が書いた書類に、自分で返答を書かなければならないのが、恐怖でした。組合の書類を作るために自腹で行政書士を頼まなければならないのか、と思いました」。
 賃金減額が強行され、交渉が膠着する。労働委員会に申し立てることになったが、申立書の書き方が分からない。労働委員会に相談すると、「組合で教えてもらえないのですか」と言われる。何とか申立書は書いてもらったものの、締め切りまでに次の書面を提出できなかった。
「人任せにすべきではないという主旨は分かるし、ボランティアで運営するというと聞こえはいいのですが、対応が無責任になってしまい、初めて労働組合で活動するのに、一つひとつ教わりながら取り組むことが許されない。何より労働組合以外の活動をしたい人が目立っていて、働きながら労働条件をよくしたいという僕の思いを共有してくれる人がいませんでした。交渉の維持ができなくなるという危機感が募りました」。
「また組合で失敗した」と思われたくなくて、ギリギリまで頑張ったが、精神的にも肉体的にも金銭的にも追い詰められ、悩んだ末、その組合を脱退する。
 2012年11月に、非正規雇用でも若い世代の正社員でも職場で仲間を増やして労働条件の維持向上を目指そうと呼びかけるプレカリアートユニオンに加入。職場で仲間を増やそう、要求を実現するような力関係を作ろうと勧められ、グループ会社のドライバーを誘って支部を作った。
 プレカリアートユニオンでは、組合が何かをしてくれると期待する、お客さんや消費者のような態度でいる組合員には、「主人公はあなた。この組合に関わって何ができるかという発想で関わる人がどれだけ多いかによって、できることが増える」と、説明される。
「遠回りしましたが、軌道修正して1から労働運動を始めた気持ちでした」。
 梅木さんたちの会社では、「変動残業代制」と呼ばれる仕組みによって、残業代を支払っていない。基本給を最低賃金に設定し、労働時間に対応しない仕事の内容や乗っている車の大きさによって払われる手当から無事故手当のような手当まで、すべてを残業代として支払っている、と主張する。基本給を元に残業代を計算して、手当の合計を上回ったら、差額分は残業代を支給するというのだが、そもそも基本給が最低賃金なので、差額がでることはほとんどない。もちろん、それらの手当は、残業代とは性質が異なっているし、何時間分の残業に対していくらの残業代を支払うという説明もない。長時間労働サービス残業はコインの裏表だった。会社は、ドライバーをタダで働かせられるから、高速道路の料金を出し惜しみする。その結果、労働時間が長くなる、という悪循環だった。
 また、運んでいる商品に傷がつくと、弁償金を給料から天引きされるという問題もあった。商品事故の天引きは、運送業界にまん延していた。本来、事業をする上でのリスクは、会社が負担すべきもので、運んでいる商品に傷がついたからといって、全額を労働者に負担させるべきではない。賃金控除協定もなく、給料から天引きするのは違法だ。
 プレカリアートユニオンは、長時間労働、残業代の不払いや商品事故の弁償金が、トラックドライバーの生活を圧迫していると、物流の根幹を支えるドライバーの過酷な労働条件を社会に訴えることにした。梅木さんと支部の仲間、他の運送会社で働く仲間は、変動残業代制は給料偽装、商品事故の天引きは違法、としてキャンペーンを張った。
 梅木さんと支部の仲間は、団体交渉を続けながら、労働債権が時効になってしまうことから残業代の請求訴訟を起こした。また、会社が団体交渉で主張の根拠を明らかにせず、回答をはぐらかしたことや組合活動への支配介入を行ったとして、東京都労働委員会に不当労働行為救済申し立てを行っている。団体交渉の場で合意達成を模索しない会社と代理人の弁護士に抗議して、争議行動も始めた。
■抜け駆けは会社の思う壺。闘った方がいい
 梅木さんや組合が取り組みを始めると、わずかだが賃金が上がり、商品事故の弁償金を自動的に給料から引かれることはなくなった。
 梅木さんには、忘れられない光景がある。何も知らない十代のとき、近所のピザ屋でアルバイトをした。時給1200円の約束だったが、給料日に店長から時給は650円だと言われた。文句を言ったら、背中一面の入れ墨を見せられて開き直られた。悔しかった。
 心筋梗塞を発症した後、病院の待合室で高齢の元ドライバーに会った。仕事で腰を痛めたのに、労災申請をせず、何の保証もなく不自由な生活を強いられていた。
「経営者は、安全なところで利益を手にして、最前線で稼いでいるはずの僕らドライバーは、知識がないせいで切り捨てられる。働く人を守るルールがあること、声を上げれば会社は変わるということを分かってほしい。以前、怒りにまかせて反乱したときのように、自分だけ抜け駆けして会社からご褒美をもらっても、結局、会社にコントロールされることになる。それより、組合で闘った方が生きる実感が持てます。沸々と怒っているけど、声を上げられない人の声をすくい上げて一緒に立ち上がりたい。それが今の僕の夢です。」