プレカリアートの胸のうち表現する啄木。『啄木短歌に時代を読む』(近藤典彦著/吉川弘文館)
石川啄木は、「時代閉塞の現状」と闘いました。彼の詩は没後も日本中で広く親しまれてきました。その後、1970年代から若者の啄木離れが進み、バブル期にそれは特に顕著となりました。『啄木短歌に時代を読む』は、長年にわたり石川啄木を研究してきた第一人者とも言える近藤典彦氏による、啄木短歌の解説とその人生、時代背景を解説した1冊です。本書に併せ、石川啄木の『一握の砂』を紹介したいと思います。
■政府の強権や資本主義社会による「時代閉塞」
啄木が生きたのは、1886年から1912年の26年間です。大人になってからは、大正期のデモクラシーに繋がる社会の流れと資本主義の台頭の中を生きることになります。当時の国内情勢は、いきすぎた資本主義に対する反発と慢性的な不況、政府の強権による弾圧と、驚くほど現代と似通っています。啄木は『一握の砂』と同時期1910年に「時代閉塞の現状」という論評を記していますが、「時代閉塞」という言葉は、現代の世相を表す言葉としても何らの違和感を覚えるものではありません。啄木のメッセージは現代を生きる私たちにこそ強く響くものなのです。
■プレカリアートにこそ読んでほしい詩人
はたらけど
はたらけど猶(なお)我が生活楽にならざり
ぢつと手を見る
誰もが1度は聞いたことがあるであろう、啄木の代表作ともいうる短歌です。著者は、長年10代後半から40代の人たち、とりわけ非正規雇用の人たちに啄木の短歌をもっと詠んでもらいたいという思いで、研究・執筆を続けてきたと言います。プレカリアートにこそ読んでほしいのが石川啄木の短歌なのです。この短歌で詠われている内容は、まさに現代にも通じます。啄木は産業革命の時代、資本主義が台頭し始める時代を生きた詩人ですが、ワーキングプアの歴史も資本主義の歴史と始点を同じくしています。
■おかしいことをおかしいと言えない社会への批判
我が泣くを少女(おとめ)ら聞かば
病犬(やまいぬ)の
月に吠ゆるに似たりといふらむ
この歌は「私の心の中の憤懣、悲しみをそのまま泣くという行為にうつしたならば、その泣き声を少女達は舌を出しよだれを垂らして何にでもかみつこうとする狂犬が月に向かって吠えているようだ、と言うことであろう」と解釈できるのだといいます。時代の閉塞感やそこから来る自らの生活・境遇に対し、誰にぶつけたらいいか知れぬ行き場のない怒りや悲しみを叫んでも、決して理解されないという一種の絶望にも似た気持ちは、非正規雇用などでいわれのない差別を受けている労働者にも共通する気持ちなのだと感じました。おかしいことに対して声を上げることが、却って「おかしい」とみられてしまうのは現代も一緒です。閉塞感が人を「病犬」にしてしまっていることを強く感じます。
■「時間の切り売り」や通勤時のラッシュアワーも詩に
家にかへる時間となるを、
ただ一つの待つことにして、
今日も働けり。
啄木は朝日新聞の記者として働いていました。この歌は、自分が有する時間の内、主要な部分を切り売りしてしか生きる術のない存在であるサラリーマンとしての自分を歌った詩です。この詩には、特に強く共感しました。現代は職場のハラスメントが横行し、新自由主義により労働から人間性が奪われています。啄木の時代と比べ、現代ではさらに労働がただの「時間の切り売り」と化しています。また、啄木はおそらく日本で初であろう通勤電車の混雑について歌った詩も詠んでいますが、この状況も現代では悪化していると言えます。
時代は繰り返します。歴史から学ぶことが大切なように、過去の文学作品から学ぶべき大切な感性、表現の仕方もまたあるのだと実感しました。詩を鑑賞するという行為には、「詠み手の意図を理解する」面と「自分での中でその意味を再構築する」面があると考えています。その意味でも、現代を生きる私たちが、啄木短歌から得るものは少なくないはずです。
稲葉一良(書記次長)