2022年に起こった東京都人権部による飯山由貴(プレカリアートユニオンアーティスト支部)の映像作品《In-Mates》の上映不許可事件に際して、プレカリアートユニオンでは抗議を継続しています。東京都による歴史否定と差別があらわとなった本件について、《In-Mates》出演者で東京大学教員、歴史学者の外村大氏から特別寄稿をいただきました。関東大震災から101年目を迎えるにあたり、今年も9月1日の日没後に都庁前で抗議行動を行います。ぜひご関心を持っていただき、抗議にご参加ください。
【特別寄稿】
「露呈した都人権部の抱える問題――2024年7月9日の会見報告」(前編)
外村 大
■0、ようやくの人間扱い
2024年7月9日午後3時、美術家・プレカリアートユニオン組合員の飯山由貴氏(以下、本稿では、すべて敬称略)は、東京都庁に出向いた。要望書は、2022年に起こった、自身の作品《In-Mates》が、都人権部によって上映中止となった事件に関連する、要望書の回答を受け取るためである。この間、この問題については、プレカリアートユニオンを中心に支援者とともに、人権部との交渉を求めて来た。そうした活動もあって、ようやく飯山らと人権部職員とが座って話をする場が設定されるようになった。飯山自身の言葉を借りれば、「人間的にやっと相手をしてもらう」ようになったのである。
人間的に相手をしてもらう、とはさすがに大げさではないか、という声もありそうだが、そうでもない。2023年6~8月、週に1度のペースで、酷暑の中で続けられたプレカリアートユニオンの行動は、人権部職員にほとんど無視された。一度、人権政策推進課長が情宣を見に来たことはあったが、翌週には「お話しすることはない」の一点張りとなった(課長は、上司にねじを巻かれたのかもしれない)。職員全員が無視を決め込む姿は、それこそ「相手を人間として見ない」対応だった(インターネット上でも閲覧できるその日の様子は「モラハラ」と批判されている。 https://www.youtube.com/watch?v=5QE1uREw_OQ )。さらに翌週からは、要請の文書を持っていこうとして人権部のフロアに行こうとしても、それを阻止されるようになっていたのである。相手にするに値しない存在ではないと認めてもらうには相当な努力が必要だったのである。
外村は、プレカリアートユニオン組合員ではないが、この場に同席することとなった。《In-Mates》に外村のインタビューが使われており、そのことが人権部職員によって問題視されているという経緯もあって、当事者性も持っているだろう、飯山らプレカリアートユニオンの要望はもっともであると考えたためである。
なお、《In-Mates》をめぐる問題と外村との関わりを簡単に説明すると次のようになる。すなわち、《In-Mates》を東京都人権啓発センターの主催行事の一環として上映することについて、東京都人権部職員は、問題視するメールを発出した。人権啓発センター職員宛の2022年5月12日付の人権部職員のメール(以下、5・12メールと略)では、《In-Mates》で用いられている、飯山のインタビューに答えた外村の言葉―関東大震災後に無実の朝鮮人が日本人の庶民によって相当数殺されたことは事実である、とするもの―について、「〔朝鮮人虐殺について〕都はこの歴史認識について言及をしていません。小池知事は毎年9月1日に行われる虐殺追悼祭について都知事として追悼文を発出しておらず、これに対しての世論を騒がせています。〔関連報道のインターネット上の記事のURL〕都知事がこうした立場を取っているにも関わらず、朝鮮人大虐殺を「事実」と発言する動画を使用することに懸念があります」との言及があったのである。
人権部側は、これは一職員のメールとして問題視していないが、このような職員がいたということ自体が、人権行政への信頼を大いに疑わざるを得ない問題である。また、自身の発言についてこのような言い方をされたことだけでなく、一人の歴史研究者としても、史実が蔑ろにされることを看過するわけにはいかない。外村は、飯山の要望が受け止められることを願うと同時に、上記の件について人権部の考え方を問いただしたいという気持ちもあり、会見の場に臨んだ。
この日は、人権部側からは、渡辺人権施策推進課長と小川企画課長が出席した。要望提出の関係者とその支援者としては、飯山のほか、外村、K(在日コリアン団体職員、新宿周辺のビルのオーナーでもある)、遅れて、《In-Mates》に出演したラッパーのFUNIが参席した。時間は30分を予定していたが、結局、40分程度のやりとりがあった。
主に回答を行ったのは、4月に異動になったばかりの渡辺課長であった。渡辺課長は、なぜか、我々に対して、敵を見るような目で対応を続けた。
■1、主な質問と回答
この日は、何より、プレカリアートユニオンとしての要望についての回答を求めたものであった。まず、飯山から要望書が届いているかとの問いかけがあり、人権部側は届いていることと、内部で検討したことを述べた。これを受けて、飯山より、①《In-Mates》上映中止についての説明と謝罪を求める、②人権部の行為は検閲、歴史の否認、差別であり、これについての説明と謝罪を求める、③人権啓発センター職員の専門性を尊重し、企画等でセンター側の意見を歪めるような行為をしないよう求める、という要望について改めて説明があった。これに対する人権部の回答は「業務委託契約は終わっているので、改めて話をすることはない」というものに終始した。飯山からは、それは「また同じような過ちを繰り返すということを意味するのか」との問いかけがあったが、人権部はこれに無言を押し通すという対応を示した。さらに飯山からは、情報公開申請で得た文書によると、人権部が《In-Mates》について人権に抵触すると判断しており、しかしマスコミ等への説明文書ではその点が除外されている、この点についての説明はないのか、おかしいのではないか、ヘイトスピーチの認定がどのように行われているのか知っているのか等の質問をした。これについて人権部の渡辺課長はヘイトスピーチの認定がどのように行われているか知っていることは述べたが、人権部が作品について人権に抵触するというような判断を行うことがおかしいのではという飯山の問いには、「何も話すことはありません」との返答であった。
ここまでの応答を聞いて、外村は、人権部側の出席者が、この問題について真剣に向き合おうともせず、この間の経緯等を把握していないのではないかという疑念をいだいた。そこで、この間の報道や都議会での質問と答弁等も含めて把握し、前任者からの引き継ぎを行っているのか聞いて見た。これに対しては、「包括的に引き継いでいる」との返答があった。このため、外村は、外村から前任の松本課長に出した手紙の内容や、神野課長(2022年当時)が「無実の相当数の朝鮮人が殺された」ではない説もあるように認識している報道について知っているか、吉村幸子人権部長が都議会総務委員会でこの問題に関連してどのように述べているかを把握しているかについても聞いた。飯山からも、「東京百年史」という本で朝鮮人虐殺についてどう書かれているか知っているかとの問いかけがあった。人権部の課長は「東京百年史」の記述については一字一句ではないが知っているというというので、ではどのような内容かと聞いたが、ここで申し上げることではないとのことであり、吉村部長の言葉についても一字一句覚えていないし、意図がわからないので答えないとの言葉で返してきた。さらにこのあとの問いかけと回答で、小野課長と渡辺課長は《In-Mates》自体を観ていないことについても確認できた。
ここで、遅れてやって来て、しかしこの状況を見たFUNIが、渡辺課長の威圧的な態度を問題にし、「お前」というようなやや「荒い言葉」で、人権部側の態度を問題にした。渡辺課長からは「真摯に対応させていただいたいると思いますが、お前というような言葉で言われると怖い」という発言があった。
これに対して、飯山から「真摯に対応している、説明したというが、いつ説明したのか」という批判がなされ、外村よりも、FUNIの言葉は荒かったかもしれないが、そもそも差別体験でつらい思いをしてきた人からもっと感情を発露したような言葉がでることがあることを指摘した。そのうえで、そもそも、在日コリアンの大変さを渡辺課長はわかっていると考えているのかを確認したく、災害の時に怖くて避難所に行けないような状況にある朝鮮人がいることなどを把握しているかを聞いて見た。これは渡辺課長が3月までは防災関係部署にいたということも念頭に置いたものであった。渡辺課長からは「プライベートではいろいろな付き合いがあるので知っている」との言葉があったため、外村は「プライベートで付き合いがあるということで、本当にそれで在日コリアンの大変さがわかるのか、それでわかったと思っているのが、人権部職員の人権意識なのか」と問いただした。これを受けて、「人権部としては在日外国人の人権啓発をやっている」「冊子を作り、広く都民の啓発をやっている」との渡辺課長からの説明があったため、外村は重ねて、在日コリアンの意識がわかったと思って職務にあたっているのか、そのうえでいろいろこの間、あらわれているのが人権部職員の人権意識であるのか、と聞いたところ、渡辺課長からは「組織としてそうである」との回答があった。外村は、この間、東京都の人権行政、人権部署に対してこれでいいのかという批判がある、行政としての信用が失われていると思うがその認識はないのかについても聞いたが、渡辺課長からは「いろいろなご意見があると認識している」との言葉が返って来ただけであった。
ここで、Kが、自分は防災関係の会議で都庁職員ともお会いすることを述べたうえで、もし、その場で本日の人権部職員の態度を都庁職員がとったならば総スカンを食うであろう、個人として何ができるか、上司に言うべきではないか、質問に対して答えていない、との指摘を行った。FUNIも再び、渡辺課長の態度を問題にする発言をなんどか行った。飯山からは、さらに、小池知事が、9月1日の横網町公園で行われる虐殺された人びとへの追悼行事への文章送付取りやめを行っていることについて、そこに東京都のマイノリティや弱者に対する姿勢が表れているととらえられること、在日コリアンのみならず予想以上に多くの人びと、とくに、マイノリティ、弱い立場の人びとは、自分たちがどう扱われるのかと関連付けてこの問題を考えており、人権肩部に対する不信感になっていること、それについてわかってほしいとの訴えがあった。FUNIからも、人権部職員への呼びかけとして、「自分は在日コリアンという立場を選んでそうなったわけではないが、あなたたちは選んで公務員になっている、であれば公務員としての立場を全うしてくれ」との言葉があった。しかし、これらの言葉に対しても、さしたる反応はなく、その後、その他の問題を若干確認してこの日の会見は終わった。
以上のように、プレカリアートユニオンの提出した要望書自体への回答は、ゼロ回答であった。人権部側は、前任者から引き継ぎをやっている、真摯に対応している、との言葉が、何度か繰り返されたが、本当に前任者からこの問題について重要なことを伝えられているのか、そうであるとすればなぜ答えられなかったり、問いかけに対して押し黙ったままであったりするのかも疑問が生じた。人権部は、この問題についてしっかり考え、誠実に向き合おうとはしていない。これは、おそらく、飯山、FUNI、外村、Kが共通して抱いた感想であっただろう。
ただし、今回のことがまったく無駄であったというわけではない。人権部職員と顔を合わせて言葉を交わすことで、人権部職員の認識、意識、職務に対する考えなどについて、推測することが可能となった(なぜ、渡辺課長が敵を見るような目で我々に対応したのかは不明であるが)。以下、少しその点について述べておく。
■2、朝鮮人虐殺の史実の認識
《In-mates》上映中止事件の報道に接して、“東京都人権部という組織は1923年9月の朝鮮人虐殺事件の史実自体を否定しようとしているのか”と考え、不安に思った者は多いだろう。さすがに都議会でも関連質問が出た。2022年11月30日の都議会総務委員会で、五十嵐えり議員がこの点について、問いただしたのである。これに対して、吉村幸子人権部長は「人権部といたしましては、関東大震災時の朝鮮人殺傷事件につきまして、史実として、教科書や中央防災会議の報告書にも掲載されているものと認識しております。」「昭和四十七年に発行された東京百年史第四巻には、鮮人暴動の流言が広がると、各地で青年団、在郷軍人、消防組などを中心として組織がつくられ、自警団と称して鮮人を迫害したなどと記載されております。」との答弁を行っている。
https://www.record.gikai.metro.tokyo.lg.jp/852253?Template=document&Id=18647#one:198
https://www.record.gikai.metro.tokyo.lg.jp/852253?Template=document&Id=18647#one:200
また、韓国民団東京本部が人権部を訪れてこの問題に関連して見解を問いただしたとこころ、都人権部の責任者(おそらく2022年当時の人権政策推進課長である神野課長)が「朝鮮人虐殺を決して否定していないと述べ、陳謝した」という。「都の学校教科書などでその史実は記されている」(都の公立学校で使用されている教科書で記載があるということと思われる)という言葉もあったようだ。
https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=6&number=27927
ここから、さすがに人権部は、朝鮮人虐殺の史実を否定していないと安心する人もいるだろう。確かに、1923年の「朝鮮人殺傷事件」自体は、否定していないのかもしれない。しかし、神野課長は、人権部職員が出した5・12メールに関連して、マスコミ取材に答えて「虐殺の犠牲者数や状況を巡ってはいろんな説があります」と述べている(『毎日新聞』2023年2月10日付)。ここで問題になるのは、《In-Mates》での外村の言葉との関係である。1923年9月に起こった史実に関して外村が言っているのは、無実の朝鮮人が日本人の庶民によって相当数殺された、ということだけである。この外村の言葉を疑問として「いろんな説がある」と言うのは、人権部としては、“殺された朝鮮人は無実ではなく何らかの不法行為を行っていた”“虐殺された人びとの数は相当数ではなく、少数である”という説も尊重せよと考えていたことになる。確かに、「朝鮮人殺傷事件」の史実は否定していないとしても、まったく定説とは異なる見解が人権部内部で共有されている可能性が高い。しかもそれは、“朝鮮人は暴動を起こして日本人に危害を加えようとしていた”“朝鮮人虐殺というが少人数なので問題にすべきではない”といった、かなり危険な言説―マイノリティに対する迫害、ヘイトクライムを誘発しかねないものである―を認めよという意見に近い。
そうであるため、7月9日の人権部職員との会見の際に、外村はこの点について聞いた。報道で出ている神野課長の言葉を解釈すると上記のようなことになるが、それでよいのか、と念押しのような聞き方もしてみた。しかし、人権部の職員は「私からお話しすることは特にありません」という返答であった。したがってやはり、人権部の史実についての認識は、“無実ではなく不法行為を働いていた朝鮮人もいる”“虐殺された人数は少数である”という説もある、ということになる。
これだけでも暗澹たる気分になるが、さらに問題とすべきは、この日、人権部職員は、歴史教科書や「東京百年史」にどんな関連記述があるのかを聞いても、頑なに答えることを拒否し続けたことである。のみならず、吉村幸子人権部長がどのような答弁を行ったかについても、「一字一句覚えていないので」として、述べようとしなかった。「一字一句」でなくだいたいでよいので教えてほしいとも言ったが、これも「意図がわからない」などという、意味不明の言葉を持ち出して、述べようとしなかった。
「東京百年史」には、朝鮮人暴動の流言がひろがると、自警団が作られ、朝鮮人が迫害されたこと、通行人に対して自警団は「ただ顔付きが鮮人〔朝鮮人を指す語、差別語であるので今日は用いられない〕らしいとか、ことばが不明瞭だというだけで、半死半生の目にあわせて警察へ突き出したり、あるいは場合によってはその場をさらせず惨殺したりした」と記されている(同書第四巻、1135頁、東京都が刊行)。外村が言った、無実の朝鮮人が殺された、ということと矛盾する点はない。他方、歴史教科書の記述は各社によって異なるものの、デマが広がって、それを信じた民衆が朝鮮人を殺したということを記していて、当たり前だが、朝鮮人が暴動を起こしたとか日本人に危害を加えようとしていたとかいうことは書かれていない。もしそんな記述があったら、検定は通らないはずである。
そのことを言わないということはなぜであろうか。これは、 “虐殺されたのは罪のない朝鮮人であった”という、ごくごく常識的で、当時生きていた人であればだれでも知っており、それを伝え来たし、その点を述べている史料も無数にある、そうであるがゆえに歴史研究上も定説となっていることを、人権部としては決して認めたくない、ということになろう。言い換えれば、人権部にとって大切なのは、“1923年9月朝鮮人が暴動を起こそうとしたり、不法行為を働いていたりした”という、公の場で言ったらそれこそヘイトスピーチに認定されない虚説の尊重なのである。
したがって、韓国民団東京本部への、人権部からの事情説明と「陳謝」も、人権侵害がないよう史実の尊重を考えたものではないだろう(韓国民団東京本部は騙されたような形になっている)。また、吉村人権部長が、都議会総務委員会で、朝鮮人虐殺について聞かれて、教科書にも記述がある、「東京百年史」にも書かれているという答弁も、“その本にそう書かれていることは知っている”ことを述べたに過ぎない。実際、そうした記述を尊重する、無実の朝鮮人が相当数虐殺されたのであるというのが定説である、などとは一言も言っていない。“そう書かれているものもあるが、朝鮮人が暴動を起こしてやむなく自警団が殺したという話かもしれない、そうした説も考えようというのが、東京都の認識だ”とする余地を残したものだったのである。
■3、被差別者との関係と人権意識
吉村人権部長は、前記の答弁を述べた同じ日の都議会総務委員会で、こうも述べてもいる。すなわち「人権部の職員は、人権施策を担う部署として人権意識を持って職務に当たっているものと考えております」といういうのである。これは、五十嵐えり都議会による、「人権部の職員の方の、こういう人権感覚とか人権行政の在り方に対する懸念というか不信の声」がある、5・12メールの内容が報道され「都民の間に、信頼が損なわれたというか、人権部に対する不信があると思いますけれども、今後、人権部としてはどのように信頼回復、努めていくか」をどう考えるのかという質問への応答である。
人権部職員が人権意識を持っているのは当然であり、それがなければおかしい。というより、現代日本で生活している者であれば、なんらかの意味で人権についての考えはあるだろう。わざわざ、人権部職員は人権意識を持っているというのが信頼回復になると考えたとすれば、奇妙な話である。
ただ、問題は、人権部職員の人権意識というのがどのようなものかである。人権部に関する報道や、7月9日の職員との会見から判断する限り、それはとても、評価できるようなものではない。むしろ、行政職員ではない、市井の市民以上に、人権感覚が鈍いのではないかと考えざるを得ない。そもそも、前述の吉村人権部長の言葉自体が、人権感覚の鈍さを物語っている。人権部長という重要な職務についている人間がこのような発言をすること自体が驚きと言ってもよい。
人権行政の担当者にとって重要なことの一つは、人権を侵害されている者、脅かされる可能性を感じながら生きなければならない人びとがどんな状況にあるのか、何に困難を感じているのか等々を理解するために当事者の声を聞くことだろう。それなしに、自分たちが良かれと考える人権施策を進めることは、人権侵害を拡大することにもつながる。そうした行政の過ちは過去―近い過去も含めて―になんども繰り返されて来た。障害者を対象に断種を行う等々もそうだし、植民地支配を受けている朝鮮人に日本人らしく振る舞うことを教える、といったことも、当事者の声を聞かない、無視する、聞くに値しないと勝手に考えたことによる過ちだ。
しかし、人権を侵害されている者、脅かされる可能性を感じながら生きなければならない人びと、とりわけ差別を受けるマイノリティの言葉はなかなか簡単には聞けない。特に、行政職員のような権力を持つ、あるいはそこに近いと思われる人びとにとっては難しい。常に多数の力を持つ者に囲まれているマイノリティは、自分たちはこんなに苦しい、こうしてほしいと語っても、社会は変わらないという諦めの気持ちを持っている人びとも多い。そして、それを語った場合、むしろ、危険な状況に陥ることという恐怖から自由ではない。何かを要求した時に、マジョリティはそんな意見に従う必要はないとして、生意気を言うなといった攻撃の言葉を投げつけるケースはごく日常的なことだろう。さらに言えば、深刻なダメージを受けた者はその原因となったこと自体を忘れようとし、言葉にしない、ということもある。
そんな境遇に置かれている、差別を受けるマイノリティが、いわば本音を語るのは、この相手は信頼できる、あるいは信頼できるかもしれない、と考えた時のみである。親しい間柄にあるマジョリティ側が考えるような関係が出来たとして、そこで交わされるマイノリティ側の語りが本音かどうかはわからない。マイノリティの人から「差別を受けたことはありません」「自分たちは幸せに暮らしています」という言葉が出たとしても、単に相手を傷つけたくないからということもありうる。あるいは「こんな差別を受けている」という話があったとしても、実はまだまだ語り得ない、より過酷な被差別体験があるかもしれない。しかもマジョリティにとっての常識は、たいがい、マジョリティに合わせて作られたものでしかなく、しばしば、それがマイノリティとは異なっていることもある。つまり、マジョリティには見えないが、マイノリティには気付いていること―だが語るのをためらっていることも含めて―が相当にある。
したがって、マジョリティ、そのうちで特に人権行政に携わる者は、果たして自分が、マイノリティからから見て本音を伝えるに値する、信頼されるような存在なのか、をまず問うべきであり、自分自身において、なんらかの無理解、認識の欠落によって、人権を毀損することにつながっていないか、ということを点検するべきである。それができない者、自分たちは人権についてよくわかっています、あなたのことを理解しています、というような態度を取る者こそが、人権について理解していないということになる。
人権について考え、差別を受けるマイノリティからの話を受けとめようとするのであれば、自分たちは人権についてわかっているというような言葉を、マジョリティの、権力に近いところにいる、行政職員は発するべきではない。ところが、吉村人権部長は「人権部の職員は、人権施策を担う部署として人権意識を持って職務に当たっている」と述べた。これは、我々人権部職員は人権についてわかっているのだ、という言葉に近い。たとえ、吉村人権部長本人の意図はそうではなかったとしても、人権を脅かされている弱者にとっては、この人たちに私たちのことなど理解してもらえない、と考える材料となる。しかも、この言葉は、5・12メールによって人権部に対する信頼が失われているのではないかという質問に対する答えである。これは、あのメールの内容があっても自分たちの人権意識は問題ない、反省もしない、自己点検も不要というような開き直りの宣言とも言える。こうした姿勢の人権部に対しては、たぶんどんな市民であっても信頼を寄せることはないだろうし、マイノリティ、特に在日コリアンが感じているのは絶望だろう。
7月9日の人権部職員との会見でも、そのような人権部職員の人権感覚の鈍感さ、危うさを感じさせられた。在日コリアンの大変さについて、人権部職員は理解しているのかという外村の問いに対して、渡辺課長は「プライベートでいろいろな付き合いがある」と答えた。「プライベートな付き合い」がどのようなもので、どの程度の関係なのかはわからないし、それ自体はここでは重要なことでもない。おさえておかなければならないのは、プライベートで在日コリアンの知人や友人(あるいは家族や親族かも知れないが)がいて、主観的には親しくさせてもらっていたとしても、差別を受ける者のしんどさ、たいへんさは、他者には完全にはわからないし、語ってもらっていると考えるべきではないということである。その点を理解しているのかどうか、疑問に感じた外村は、さらに、「プライベートで付き合いがあるというけれど、本当にそれで在日コリアンの大変さがわかるのか。たまにあってしゃべるだけで理解できるのか。わかってと思っている? わかったと思っているというのが、人権部職員の人権意識なのか」とも聞いてみた。しかしこれに対する答えは「いまお話しさせていただいたのはプライベートな話のことで、人権部としては在日外国人も含めて、人権啓発をしっかりやっている」というもので、その後も人権啓発とは具体的に何かと言うと、冊子を作っているという答えがあり、人権部に対する批判があることをどう考えているかについても様々なご意見があると認識している、といった話で終わった。つまり、「我々はよくわかっているし、しっかり仕事やっている」というアピールに終始したと言えよう(なお、冊子を作っている、というのがアピールポイントというのであれば、なんとも寂しい話だが、付け加えておけば、東京都の人権啓発活動で在日コリアンの状況について十分な説明がなされているとはとうてい考えられない。というより、そもそも在日コリアンについて啓発冊子等で触れること自体がない)。
繰り返しになるが、自分たちは、人権意識を持っているというようなことを安易に語り、しっかり人権行政を進めているというような公務員に対して、差別を受けているマイノリティは、自分たちの思いや、困難な状況を語ることは、ほとんどない。そして、当事者の声を聞かず、十分に受けとめないままに進める人権施策は、啓発事業であれ、人権相談の受付であれ、効果を発することはない。むしろ、害悪を及ぼす可能性すらある。
本当に人権行政に真摯に取り組もうと思うのであれば、まずは、自分たちはわからないことがあり、信頼を得なければ人権侵害の現実を知ることはできないということの認識、それに基づく謙虚な態度、そのための自己点検、批判を受けていることへの反省や謝罪の表明が必要である。それなしには、被差別者との関係を築くことはできないはずである。これは外村の勝手な思い込みではない。7月9日の人権部との会合の場に参席した、在日コリアンのKの「こういう態度で、都民を巻き込んで何かをやろうとしても通じない。課としての対応、しかも人権という施策ではそれはできない。上司に言っておいてください」との言葉は、このままでは人権部を信用できない、ということを伝えている。(後編に続く)

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