広島の記憶を未来へつなぐ 連合「2025平和行動in広島」参加報告 佐竹雄次(執行委員)
■はじめに 戦後80年の広島へ
80年前の1945年8月6日午前8時15分、広島に人類史上初の原子爆弾が投下され、一瞬にして多くの尊い命が奪われました。昨年末には「日本原水爆被害者団体協議会」が、長年にわたる核兵器の非人道性の訴えと平和への歩みを評価され、ノーベル平和賞を受賞しました。2025年が戦後80年という節目であることもあり、会場には海外からの参加者も非常に多く、日本の過去の出来事への関心の高まりが感じられました。
さて、私は所属する全国ユニオンを代表し、日本労働組合総連合会(連合)が主催する「2025平和行動in広島」(略称:平和行動in広島)に、スタッフ(PAT)として参加いたしました。ここでは、8月4日(月)から6日(水)までの3日間の滞在で得た経験と学びを報告します。
■私の内面に起きた変化 視察学習を通じて
活動初日の4日は、連合広島の方々との打ち合わせ後、原爆ドーム、平和記念公園、平和記念資料館での現地視察学習に臨みました。
前回、訪れたのは大学生最後の旅行で、どこか観光気分が抜けず、原爆が投下された日に何があったのか、被爆地域がその後どうなったのかを深く知ろうとはしていませんでした。そのため、この日の視察学習は、私にとって初めてヒロシマの真実に触れる機会となりました。
視察学習で目の当たりにした現実は、言葉にならないほど悲惨で衝撃的なものでした。事前学習と現地での経験を通じて、私の限られた視野ながらも、「原爆投下という悲劇の背景には、国家間の対立だけでなく、人種差別、思想の不寛容、そして個人の尊厳が軽んじられた時代状況があったのではないか」と感じました。一人ひとりの考え方や多様性の尊重が欠如した先に、あの悲劇は起きてしまったのではないかと、私なりに解釈しました。
同時に、過去の悲劇と現在の平和を「恵まれているから感謝しよう」という言葉で単純に結びつけてしまうことに、強い抵抗感を覚えました。それは、過去の犠牲の上に現在の私たちの幸せがある、という一方的な見方で問題を矮小化しかねないからです。
今を生きる私たちは、未来を築く責任として「一人ひとりの考え方と多様性を尊重する」ことを世界の共通認識にしていく必要があると考えます。過去に尊厳が軽んじられた結果、何が起きたのかを後世に伝え「平和は与えられるものではなく、私たちが努力して築き、維持し続けるものだ」という主体的な考え方を持つ重要性を改めて認識しました。
■平和を願う人々の連帯 ピースウォークとヒロシマ集会
5日の午前は、連合本部、連合広島、そして賛同団体の実行スタッフによる全体打ち合わせに臨みました。午後からはピースウォークの実行スタッフとして、受付や、参加者から寄せられた折鶴と献水の受け取り、そして行進の誘導を担当しました。
当日は快晴で気温・湿度ともに高く、酷暑の屋外対応でしたが、これは、連合本部と連合広島の周到な準備と、スタッフ各自が役割を理解し、行動に移した成果だと思います。
ピースウォーク後には広島県立文化芸術ホールで「被爆80年 連合2025平和ヒロシマ集会」が開催され、ピースウォークからの参加者を含め、1000名以上が集いました。
集会には、海外からも多くの来賓が出席されました。
・国際労働組合総連合(ITUC)
・アメリカ労働総同盟・産別会議(AFL-CIO)
・ドイツ労働総同盟(DGB)
・ドイツ鉱山・化学・エネルギー産業労働組合(IGBCE)会長 兼 イギリス労働組合会議(TUC)
・イギリス労働組合会議(TUC)
・国際労働組合総連合アジア太平洋地域組織(ITUC-AP)
来賓の方々は、広島の思い、そして戦争被爆国日本の思いに触れ、記念館などを視察された上で、それぞれの平和への思いをスピーチされました。
■魂を揺さぶられた被爆証言 切明千枝子さんの言葉
集会の中でも特に心が締め付けられ、涙がこぼれたのは、切明千枝子さんによる被爆体験証言でした。
切明さんは1929年(昭和4年)、世界恐慌が始まった年に広島で生まれました。日中戦争、そして太平洋戦争へと時代が進むなか、切明さんの一家は、自宅を兵士たちの宿舎として提供するよう命じられます。当初は若かった兵士が次第に高齢になっていくことに不安を覚え、女学校の教師に話したところ、「言葉は言霊になるから、不吉なことを言うな」と体罰を伴って叱りつけられたそうです。このエピソードからも、当時の日本がいかに言論統制に厳しく、思想に不寛容であったかが伺えます。
切明さん自身も、建物疎開作業などに従事していました。原爆投下当日、1945年8月6日。関節炎の治療のため、勤務先のたばこ工場から通院途中、比治山橋東詰で被爆します。近くの建物の軒下に入った途端、閃光と爆風に襲われ、地面に叩きつけられ気絶しました。
建物が陰になったおかげで奇跡的に火傷は免れ、ガラス片による切り傷と打撲で済みました。
しかし、避難した女学校で見た光景は地獄でした。ひどい火傷を負った下級生たちが次々と運び込まれてきます。彼女たちの手足には、ワカメか昆布のようなものが付着していました。それが熱線で爛れた皮膚だと気づいたのは、取り除いた後だったそうです。医薬品もほとんどなく、唯一の治療は、使用済みの食用油を汚い雑巾に浸し、患部に塗ることだけでした。それでも下級生は、か細い声で「ありがとう」と口にしたといいます。
次々と息絶えていく下級生たち。猛暑の中、遺体の腐敗を懸念した先生は、校庭に遺体を集め、廃材と食用油で火葬することを決めました。高温で火葬できなかったため、遺体の筋肉が収縮し、まるで生きているかのように手足が動いたそうです。その光景を前に、切明さんは体も動かず、瞼を閉じることさえできなかったといいます。自らの手で友を焼いたという行為、肉の焼ける臭い、そして骨になっていく光景が脳裏に焼き付き、「忘れたくても忘れられない」と、切明さんは語られました。
証言の最後に、切明さんはこう結ばれました。
「皆さん、広島の街は今でこそ綺麗に舗装されていますが、戦後、急いで復興させたので、まだ掘り起こされていないご遺骨がたくさん埋まっていると思います。ですから皆さん、どうか心の中で“踏んでごめんね”と思いながら歩いていただければ幸いです」
この言葉に、私は涙が止まりませんでした。DVDや資料で知るのとは全く違う、生の声の重みに、改めて多くのことを考えさせられました。
■おわりに 平和は私たちが築き続けるもの
最終日の6日、原爆が投下された午前8時15分、「平和の鐘」の前で黙祷を捧げ、打鐘式に臨みました。私も平和への祈りを込めて、鐘を打たせていただきました。その後、総括会議で次年度に向けた改善提案を出し合い、広島駅周辺での核兵器廃絶1000万署名活動をもって、3日間の行動は幕を閉じました。
この「2025平和行動in広島」は、私の心に大きな変化をもたらしました。これまでの私は、原爆投下当日に何が起きたのかを詳しく知ろうという意欲がありませんでした。しかし、今回の経験を通じて、原爆投下前から投下後、そして被爆者の心身に何が起きたのかを深く学び、核兵器の恐ろしさを自らの言葉で語り継いでいきたいと強く思うようになりました。そして、「平和と民主主義なくして労働運動なし」という、私たちの活動の根幹に、確かに触れることができたと確信しています。
佐竹雄次(執行委員)



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